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梅田陽子のマインドボディ便り

更新日:2011.07.01(金)

【第18話】
被災地A村・4月末現在

4月末の1週間、東京から600㎞、ジープでA村という被災地に向かいました。

目の前に広がった風景は突然茶色になり線を引いたようにある地点から瓦礫の平野と化していました。それをまるで見渡すかのように役場が建っていました。後からわかったのですが、実は役場は瓦礫を止める堰のようになっていたのです。

私たちは自殺予防の専門家(精神科医や臨床心理士など)で構成されたチームとして、A村で長期に医療支援活動をするB医科大のC医師を慰問しました。

私たちのチームは、C医師らのチームが献身的に取り組む医療現場を侵害(出すぎた言動など)をしないよう、神経をとがらせていました。お久しぶりの笑顔も出せないほど、緊迫していたからです。

そこに避難所同行の許可を受けました。私はいくら知人であったとしても、外から無理矢理入りこむようなことはせず、謙虚にできることを与えられるまで待ったことで、B医師らから機会を与えられたと感じました。

避難所は高台にありました。C医師らとA村や隣のD村で構成された「心のケアチーム」は、2~3日に1回は訪れ、密な関係を築いているため被災者の名前と顔や症状が一致しているのです。

すごいと感じました。チーム内での情報共有をするだけでも時間がかかるのに、いったいどれほどの時間を費やして対応してきたのか、地道な努力は想像を超え、労う言葉が出てこないほどでした。

その後私はひとりB医師らのチームに加えていただきA村に残ることになりました。しかし、一人で残ると決めるには迷いがありました。正直怖かった、現状に腰が引けてしまったのです。その背中を押した思いは「今しかできないことがある、帰ったら後悔する」それだけでした。

出発前に親しい知人から「何もできない、今まで積み重ねてきた自分の能力が何もいきない現実に無力感に苛まれる。それが支援、心して入れ」と言われて来ました。

今回B医師のチームに加わる許可を得られたのは自分にとって幸運でした。それは、彼らが築いてきた地域密着のサポート体制が「信頼関係」としてできあがっていたことと、不安な私を専門家集団が支えてくれたことでした。これらのことがあったからこそ、私は身体運動をきっかけとして被災者の方と接することができました。

この活動で強く思ったことは、今まで自分が得てきた人とのつながり、仕事への取り組みなど、これまでの生き方そのものが試されているように感じたことです。

それは知識や実績ということではなく、自分という人間がどうやって日々を歩んできたのか、今はどうであるのかという、人間そのものを問われているということです。

まるで人生の審判にあっているような感覚を毎日その場その場で味わいました。グラグラに揺れる自分が折れないようにすることで精一杯でした。

それをB医師や保健師らが支えてくれたのです。チーム医療とは、お互いの専門分野を生かし補完し合うというだけでなく、お互いの心の支えとしても重要であることを改めて感じました。

A村E保健師に「関西には多くの運動指導者が控えている」と申し出ましたところ、まっすぐに私を見つめてこう言われました。「それはずっと先かもしれません。必要になる時が来るまで待っていただけますか。」重たいものを背負った方の答えだと思いました。

6月初旬、わたしはまたA村に戻ります。道は長い、これからだと思っています。


梅田 陽子

通過した飯舘村
通過した飯舘村
この時は避難区域に入っていなかった。ここで自分たちのコメを購入した。

A役場前
A役場前
階下が波で抜けてしまった。

A役場内
A役場内
1㎞先、向こうは海岸線。
残った松が数本見える。本当は松林が続いていた。堤防も数か所決壊している。



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